首都直下型大地震とルシファー - IISIA 株式会社原田武夫国際戦略情報研究所 - haradatakeo.com
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首都直下型大地震とルシファー

先週の木曜日(9月10日)のことだ。いつもご指導賜っている先達と会食をした際、別れ際に赤坂の街角でふとこう告げられた。

「そうだ、そう言えば大切なことを言うのを忘れていた。前から君がとても気にしている首都直下型地震だけれども。箱根から伊豆沖にかけての動きがここに来て半端ではなくなっているようだ。見立てでは10月後半から11月にかけてが危ない。充分備えるように」

そして翌朝。私は弊研究所に出勤するといつも行っている朝礼の場で、所員たちを前にこう告げた。

「これまで何度か言って来たとおり、米軍は地震発生の72時間前に極めて正確な形で、一体どこでどれくらいの規模の地震が発生するのかを特定する能力を持っている。2011年3月11日に発生した東日本大震災の際にもそうであり、当時の民主党政権に対して事前通告をしたが全く聴く耳を持たれなかった。そのラインから昨日、10月後半から11月にかけて首都直下型地震が発生する危険性が極めて高くなっていると聞いた。私はこの研究所を率いる立場にある者として、2011年3月11日とその後に何が起きたのかを念頭に起きながら、まずは所員の皆さんの安全と雇用の維持を念頭に準備を進めていきたいと思う。まずは命あってのことなので各位におかれても心の準備と物理的な準備の両方を進めてもらいたいと思う。ただ、大切なことはいかなる天変地異が発生するとしても、『その後』に役割がある人は必ず命を救われるということだ。自分自身がいかなる役割を果たすことになるのかも是非、一人一人イメージしておいてもらいたい」

さらに翌12日。いつものとおり寅の刻に起床し、土曜日恒例の英文ブログを執筆していると強烈な揺れを居宅にて感じた。震源は東京湾。都内で震度5を感じるほどの地震であった。直後に発表された専門家たちの分析によれば、それでも今後想定される首都直下型地震で放出されるエネルギーの1000分の1にしかあたらない規模の地震であったのだという。

あらためて申し上げておきたいことなのであるが、大切なことは2011年3月11日午後2時46分から後、私たち日本人は一体何をやってきたのかを想いだすことなのだ。忙しい毎日を読者の皆さんも必ずや送られていると思うのだが、是非、ここで今一度振り返って頂きたいのである。

あの日、私は翌日(2011年3月12日)に仙台で定例セミナーを行うため、準備をしている最中であった。そのためのミーティングの最中に大地震は発生した。「ひどい揺れだった」などと話している間にもう一度の激しい揺れ。それでもなお、「いつものことであって、大したことはない。明日は仙台だ」と信じていた。

そして夕方6時頃。マスメディアやインターネット媒体は一斉に東北地域の現地からの第一報を伝え始めた。巨大な津波が発生している。現場にようやく急行した警察官たちが目視をした範囲でも、信じられないほどの数の遺体が流されている。濁流が全てを飲み込んでおり、とにかく現状が把握できない―――。

まずは現実に何が起きているのかを把握することにつとめながら、とにかく食糧と水の確保を行った。下手をすると公共交通機関が全てストップする可能性があり、所員共々籠城となる危険性があったからだ。幸いその日は運行が続いており、所員たちに水と食糧を分けて帰宅した。マスメディアやインターネット媒体は「帰宅難民が大量に発生している」と伝え、同時に夥しい数の亡骸が打ち上げられている東北地方太平洋沿岸の様子を一つ、そしてまた一つと伝え始めていた。一部の欧州メディアが「これほどの大地震があっても日本には全く被害が生じなかった。さすがだ」との第一報を報じていたが、何のことはない完全なる憶測であり、思い込みであった。

そしてわずかばかりして東京電力福島第一原子力発電所の被災状況が伝えられ始めた。「水素爆発」「ベント」「ベクレル」「放射性物質の拡散」といった言葉が乱れ飛び始めた。知り合いのマスメディアの関係者からは、「取材現場を放棄する記者たちが相次いでいる。取材をすればするほど、首都崩壊することが分かってしまうからだ。大変心苦しいが私もこれから東京を後にし、家族と共に西日本に逃げることにする。しばらくの間お会い出来ないがまたどこかでお互い無事に逢えることを祈っています」といったメッセージが次々に私のところに舞い込んで来た。

私の義理の家族は福島県いわき市に暮らしていた。大地震の被害も甚大であったが、「その後」の恐怖が最も襲って来た地域だ。ようやく連絡がとれたところで、それでもまだマシである西東京にある私の狭い居宅へと全員が自家用車で非難してきた。皆、恐怖と疲労で焦燥しきっていた。その姿を見かねて、数日経ってから「焼肉でも食べに行きましょう」と皆を誘い出し、つかの間の団欒で気を紛らわせたことをよく覚えている。

そうこうしている間に、どういうわけか首都圏では一切ガソリンが買えなくなった。後に関係者に聴いたところ、タンクローリーはあったものの、その差配を混乱した当局が完全に間違えたが故の現象であった。正にパニックであり、私も灯火管制が敷かれたかのように真っ暗で、街角という街角で「手旗信号」で交通整理をする警官たちを目にしながら、東京近郊のガソリンスタンドを探して彷徨った。ある時など、目の前で「すみません、これ以上のガソリンは食糧配給のための車両以外は提供できません。申し訳ありません」と言われ、地団駄踏んだことすらあった。そして暗い街の中をゆっくりと愛車を転がして帰った。

「壊すこと」しか知らない民主党政権は相も変わらず大混乱を続けていたが、どこかからか今度は「がんばろうニッポン」などという軽々しいスローガンが聞こえてきた。これを聴いて私は心底怒り狂ったものである。何せ、生きるか死ぬか、という恐怖が低温やけどの様にじとっと続く日々なのである。時に食糧すら調達がままならない中で「がんばろう」などと軽々しく口にする向きの気が知れないと正直想った。その気持ちは今でも続いている。

それから、何が起きたのか。

相変わらず大混乱を続ける民主党政権に区切りをつけるべく野田佳彦総理大臣(当時)は勝つあてもない総選挙に突入。大敗北を喫し、その代わりに誕生したのが第2次安倍晋三政権だ。円安誘導に伴う資産バブル展開という「アベノミクス」を主導する安倍晋三総理大臣の姿に人々は心酔し、しばしの株価上昇に酔いしれた。第2次安倍晋三政権は「国土強靭化」を掲げ、公共工事を堂々と復活、拡大させ始めた。エネルギーが足りていないのであれば原子力を再稼働させるべきだとも論じ始め、「F1(福島第一原子力発電所)」から日量400トンも排出され続けているトリチウム汚染水は総理自ら、国際社会に対して「アンダー・コントロールだ」とまで言い切った。その後、約束されていたはずの「第3の矢」をアベノミクスは明らかにすることなく終始し、その代わりに突如として「安保法制」が浮上した。町中ではしばし近隣諸民族に対して罵詈雑言を吐く「ヘイトスピーチ」が横行したが、これはいつの間にか処理された。その代りに安保法制反対デモが国会前で繰り広げられるようになったが、今や何ら政権批判を言わなくなったマスメディアは「安保法制の意義」を連日報じつづけた。経済団体はというと「武器輸出三原則の大幅緩和」を公然と求め始め、戦争経済による浮上を試み始めた。当然のことながら、安倍晋三総理大臣に対する支持率は一気に下がり始めるが、それでも自民党総裁選は「無投票再選」のラインで決まった。結局は何も変わることが出来ない我が国の全てをあざ笑うかの様にチャイナ・ショックが生じ、平均株価はものの見事に大暴落した。そして、何をしても何も変わらないという状況が続く中、「原発再稼働」は現実のものとなり、「トリチウム汚染水」についてもまずは地下水の海洋への希釈放出というラインで固まり、同じく実現された。他方では東京夏季五輪を巡り相も変わらずの利権構造を創ろうとしていた手合いが大勢いたことが「国立新競技場」あるいは「エンブレム」を巡って明らかとなり、血祭に上げられ続けている。しかし、事態はそんなレヴェルで済むものではないのだ。「事ここまでになった以上、ブレイクスルーのためには全く違うレヴェルの出来事が起きる必要がある」―――私たち日本人は、口にこそ出さないものの、密にそう胸の中で想い始めている。そして発生した鬼怒川の大洪水。濁流に流される建物と再び失われた人命。2015年9月12日の土曜日の早朝に発生した首都直下型地震。

lucifer

今朝、いつものとおり寅の刻に目覚め、ベランダに出て空を見上げると、明けの明星がさんさんと輝いていた。昨日発生した首都直下型地震の後、「これまで私たち日本人は一体何をやって来たのだろう」と悲嘆にくれていた私のすさみかけていた心を、ルシファー(Lucifer)は一気に癒してくれた。これほどまでに星に、そして光に癒されたことはなかった。

エジプトを出て以来、己の民族を次々に襲う苦境に悩まされ続け、独り茫然とシナイの岩山に登ったモーセが見たものも、実はこのルシファーだったのかもしれない。ふとそんな風に想った。愚鈍かもしれないが、他に比べて真面目で、平和を愛する我が日本民族になぜここまで苦難が訪れるのか。誰が、一体何のためにこれほどまで我らを試しているのか。この問いに対する答えを出すべき時がもう間もなく訪れることになる。残り30日なのか、それともそれ以上なのか。クロノスからカイロスへと「時間」そのものが変容しつつある中においてその長さ自体に全く意味は無いのかもしれない。大切なのは、私たち日本人が程なくして訪れる大地の怒りの「向こう側」において、為すべきことをあらかじめ悟り、静かに、しかし着実に“その時”のために準備を整えることが出来るかなのだ。

「汝失うことを恐れることなかれ。

 茫漠たる闇の中にあっても一筋の光とならん」

2015年9月13日 東京・仙石山にて

原田 武夫記す

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